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ワイン王国、オレゴン州

ポートランド近郊で暮らすということは、米国有数のワイン生産地の中で生活するということにも当てはまりますが、それはワイン愛好家にとってどんな意味があるのでしょうか? ポートランドは、米国のワイン生産地のうち、それぞれ2番目と3番目の規模を誇る、ワシントン州とオレゴン州のほぼ中間に位置しています。この機会に他では味わえない、この地ならではの体験を満喫してみてはいかがでしょうか?

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ムールヴェードルに首ったけ

ムールヴェードル、あるいは原産地スペインでは「マタロー」と呼ばれているこの赤ブドウは果皮が厚く、熟成が遅いブドウ品種で、最近まではあまり目立つこ とのない存在でした。むしろ品種としてはメジャーなカベルネソヴィニョンやピノ・ノワールが不足した際に、端役をやるといったワイン醸造の過程では補助的 な役割をしていました。グルナッシュやシラーなどの品種とブレンドされる時、ムールヴェードルのその濃く深い色合いとしっかりとしたタンニン、濃縮された 獣臭がワインの構造やボディを見事なまでに調和させるからです。

このようなコンビネーションのワインはシャトーヌフ デュパプ (Châteauneuf-du-Pape) などに代表されるアペラシオンのある南ローヌ渓谷によく見られますが、最近では、作り手が次々にローヌスタイルである「GMS」ワイン(グルナッシュ、シ ラー、ムールヴェードル)を生産しているオーストラリアなどでも見かけるようになりました。ローヌ渓谷のシャトー・ド・ボーカステ(Château de Beaucastel) は30%のムールヴェードルを使用するシャトーヌフデュパプとして有名です。

一方、ムールヴェードルの 土っぽい、やや匂いのきついという特徴は作り手がしばしば単一品種のワインを生産するのを断念させておりましたが、プロヴァンス地方のアペラシオン、バン ドールではムールヴェードル100%またはそれに限りなく近い割合でのワインが生産されています。ムールヴェードルはプロヴァンスのテロワールと非常に相 性が良く、バンドールは未だ正しく評価されていないこの品種のよき理解者といったとこでしょう。

アメリカでは優れた作り手が実験的にムー ベールドールを中心としたワインを生産し始めました。ワシントン州では、マクレアセラーズ(McCrea Cellars)がムールヴェードル90%、シラー10%の割合で生産したワインが批評家に称賛されています。カルフォルニアの有名なワイナリー、リッジ ヴィンヤード(Ridge Vineyards)でもまた95%の割合でムールヴェードルを使用した「マタロー(Mataro)」というワインを生産しました。

オンラインワインショップでは、ムールヴェードル種の色々なワインを購入できなす。次のは僕のおすすめです!

シャトー・ブロ シャトー・レ・ムーレール 2005
シラー60% ムールヴェードル30% グルナッシュ10%

レ・ヴィニョロン・ドゥ・テラッツ レ・ピエール・プラッツ・ルージュ 2006
シラー44% ムールヴェードル38% カリニャン18%

シャトー・ヴァニエール・ルージュ 2004
ムールヴェードル90% グルナッシュ10%

ブロガースとの出会い

遅ればせながら、初めてブロガーのミーティングに参加した。彼らは一昨年から毎月東京の某所で集まり、夕食を食べながらブログの世界(ブロガーが言うには 「blogoshpere」だが)やテクノロジーの進行について熱く語る。去年の初めには「blog」という言葉は殆ど知られていなかったのだが、今では意味がわからない人はいるとしても、耳にしたことがない若者はかなり少ないだろう。

僕のケースではブログする活動―つまり、自分の日常生活について、ありふれた戯言をHPで連載すること―を、1997年から散発的にやり続けてきた。当初は、もちろんアナログでやるしかなくて、テキスト編集ソフトでHTMLファイルを作成して、FTPでサーバにアップするのが常だった。しかし、現在のHP製作法とは基本的には変わらないけれど、最近出ているツールを利用すれば、文書を書く作業以外の仕事をずいぶん減らすことができるし、オタクしか構築できなかった機能もすでについているので誰だって容易に「パーソナル・パブリシング」ができるようになった。

いずれにせよ、僕がそこで会ったブロガーは一般人ではなかった。勿論、プログラマーやエンジニアは圧倒的に多かった。その他には想像していただけるようにデザイナーや撮影者も多数いた。やはり、「誰だってできる」日が来たとはいっても、実際に「する」人の種類は限られていると思う。言葉や画像を元にして、皆に閲覧してもらう綺麗な何かを作成し、自分のHP上に載せたい人がブロガーになりがちだ。

「限られている」と言えば、メンバーの国籍も意外だった。「Japan Bloggers」と名乗ったグループだけれども、それは単なる地理的な定義のようだ。なぜなら、日本人は一人もいなかったからだ。非常に国際的な集まりではあったが、「Japan」なのに日本とは何のゆかりもないのは少し変だと思った。「外人ブロガース」に改名するように提案したら怒られるのかな。いや、無視されてしまいそうだからやめよう。

まあ、それはともかく、面白くて頭のいい人達ばかりだからこれからの付き合いがちょっと楽しみだね。

五反田!五反田!

友達に勧めてもらったわけの分からないFLASHムービーだ。

新子安

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久しぶりに新子安へ、今日参りました。一年で殆ど変わりなし。橋を渡りながらその風景を眺めると、「美」がどうしても見当たらない。おまけに、新子安だけでなく、この光景が品川と横浜をつなぐ地域を完全に代表するかもしれない。ともかくその印象はする。「発展」が何よりも大切に思われていた、戦後の日本で発展された光景であろに違いない。

「美」が戦争で殺されたのか、「発展」に変形されたのか、存在するゆとりが無くなったから消えたのかが不可知なものだろうけれど、俺は新子安の風景を見たら、美の再現を強く待ち焦がれる。

San Diego

10年ぶりにサンディエゴを訪ねてきた。海軍の頃、4年間もその町で暮らしていた当時の沢山の様々な思い出が未だに記憶に新しい。しかしながらその思い出は必ずしも快い想い出ばかりではない。20代前半の水兵でお金も部屋もなく、古くて汚い誘導ミサイル装備巡洋艦で生活しており、その内部に深く埋められている寝台を30人の水兵と共用していた。

船上生活は過酷だった。4日毎に一度、一日中船から出て当直しなければならなかったし、仕事の制服もひどかった。

無教育の田舎者や労働者階級のヤツばかりに囲まれていたのでもちろんくつろいだ気持ちだったけれど、まるで囚人のような生活だった。 その他にも困難辛苦はあったが、その体験をもう二度と経験したいと思っていない。

兵役期間が終わったと同時に持ち物すべて車に詰め込んで、サンディエゴに別れを告げた。それは1991だった。

正直なところ、10年ぶりだというのにサンディエゴは全然恋しくなかった。南カリフォルニアにうんざりした僕にとっては、一生戻らなくても涙を流さない場所だし、そうだとすれば、なぜ戻ることになったのだろう。

たまたま兄が去年、ミシガン州からカリフォルニアに戻って、現在サンディエゴに住んでいるのだ。 一軒家も双胴船(カタマラン・ヨット)も買って、サンディエゴでの新生活にすんなりと落ち着いたようだ。

そんな兄が先週40歳になった。 2ヶ月前に彼の彼女から連絡があって、「サプライズ・パーティをやるけど、来てくれないか」と誘われた。 日本に住んでいるからあまり会う機会がないのでいいチャンスだと思った。

サンディエゴが随分変わったとは言えないけど、今回の印象はとても良かった。やはり天気は毎日晴れていたし、街の人々は親切で、ビーチは近い。それにカルチャーが著しく発展してきた現在のサンディエゴがなかなか気に入った。

兄が住んでいる付近は、今現在スラム街から高級住宅化している途中であるため多様性が高いし、面白い店などがいっぱいある。ラテン系の人々がその地域の人口の大多数を占めていて、スーパーに入ると棚に並んでいる商品の殆どが南の方から輸入されていて、どんなに考えても中身がなんだか想像もつかない。英語よりもスペイン語の方が多く聞こえてくる。どの国にいるのか解らなくなりやすい場面で、アメリカらしくない穏やかさが爽快な気分を与えている。多彩な人間に多彩な言葉、そして多彩な家々の正面がその辺りの特性を示している。

短い滞在だったが、この旅で存分に遊んだり楽しんだりできた。青空の下で帆走し、パーティを開き、ロスに遊びに行くこともあった。もちろん美味しいレストランに毎日食事に行った。最後の夜は兄とその彼女に近くの The Turf Club に連れて行ってもらった。レストランでも、バーでもないところだ。非常にシンプルなメニューが左側に多種なステーキ、右側にカクテルを紹介していた。それを見てふと迷った僕は、「フィレがうまいぞ」とニッコリとしている兄に従うことにした。

店内は60年代のラウンジの雰囲気と内装だが、部屋の真中に大きなグリルがぽつんと置いてある。そして皆がそれを囲み、自分のケバブやステーキを楽しそうに焼いているのだ。年配の常連が木製のバーカウンターに並んで、覆い被さるように前かがみながらウイスキーを飲んでいるイメージを連想させるこのラウンジが、BBQやお喋りしている若者でいっぱいになっているのが変に可笑しかった。マンハッタンをちびちび飲みつつ、レアのフィレを噛みながらその若者の笑顔を見ているのがどういうわけか楽しかった。

実際にはほとんど変わっていないだろうけれど、嫌いだったサンディエゴがこの10年ですっかり良くなったなと、そのとき思った。

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